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なんの穴かはナイショ
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たとえばおまえが鞭で打たれることで興奮するマゾだとして、もしもこの世に「全自動鞭打ちマシーン」なるものがあったとしたら、果たしておまえはそれに自ら打たれて興奮することができるだろうか?

誰もいない部屋でひとり「全自動鞭打ちマシーン」のスウィッチを入れ、鞭の振り下ろされる先に自分の尻なり背中なりを差し出し、自分で調整した強さで鞭打たれながら悶える・・・


もしくはおまえが聖水飲むのが大好きなマゾだとして、もしもこの世に「聖水生成マシーン(語呂はいいね)」なるものがあったとしたら、果たしておまえはそれで作られた聖水と全く同成分の液体を飲んで喜ぶのだろうか?

好みの味・匂い・濃さのおしっこができるようにセッティングして、出来上がった聖水をグラスに注いでゴクゴクと飲み干す・・・


誰かが見ていてくれるわけでもなく、誰かに命令されてするわけでもない。自分の意思で、自分の好みで、自分の満足を得る・・・そんなマゾ、いるのかな?


nana4_2.jpg


そんなマゾがいるとしたら、わたしはその気持ちを理解することができない。

相手がそこにいて、反応するからおもしろいんじゃないの?自分の心と体を差し出すことによって、相手が喜んだり興奮してくれるから楽しいんじゃないの?

それはこちら側も一緒。わたしは抵抗できない子供や動物をいじめて興奮できないし、わたし自身やわたしのすることに対して本当に嫌悪感しか抱いていない人に何かしたってちっともおもしろくない。

SMって、相手があってはじめて成り立つものなんじゃないのかな?


もちろん、自縛オナニーとか女装オナニーとか(オナニーしなくてもいいけど、とにかく自分だけのために楽しむ行為)、そういうものは理解出来る。だってそれは、SMじゃなくって性的なフェティシズムだもの。恥ずかしい自分の姿を俯瞰で見て興奮する気持ちはすごくよくわかる。(そういうの、覗いてみたいな)

でも本来相手があってはじめて成り立つSMの行為だけを抜き取って、その行為自体にのめりこむのってちっともロマンティックじゃない。行為自体に意味があるのではなく、なぜそれが行われるのかとか、嫌なのに感じちゃう禁忌感だとか、そういうのがSMのおいしいところなんだと思います。


前に述べた「全自動鞭打ちマシーン」にしたって、そこにわたしがいて「おまえなんか打ってやらないよ、おまえはその機械にでも打たれてヒイヒイ言ってればいいじゃない」なんて言って強制するんだとしたら、そこにはロマンが生まれるよね。目の前にわたしがいるのに打ってもらえないもどかしさ、自ら進んで機械に鞭打たれる惨めさ、そのすべてをわたしに見られてしまう恥ずかしさ・・・

おまえがいて、わたしがいるからあらゆる行為に「意味」がある。

「できるよね?」って追い詰めたときの嫌そうなのに昂揚している眼、自分でも思いもよらなかった行為に興奮してしまって驚いている顔、わたしのために一生懸命ガマンしている姿・・・そういうのが見たくってわたしはSMをやっているんだ。





長々とわかりきったことを書いてしまいましたが、きっかけはМ男ちゃんとの↓このような会話。

「もしもわたしの尿道から出るのがファンタグレープになっちゃったとしても、おまえはそれを飲みたい?それとも聖水生成マシーンで作ったおしっこが飲みたい?」・・・そんなわたしのバカな質問に、彼は笑いながら「そんな機械で作った聖水飲んでも意味ないですよ」と答えた。もしもそこから出るのがファンタグレープだとしても、彼にとって意味があるのはわたしの脚の間に潜り込んでマゾに堕ちていくことなんだそうだ。

ものすごいくだらない話をしてるのに、なんだかキュンとしちゃったんだ、わたし。


[ 2012-04-22 (Sun) 11:15 ]  
   Category:ふつうのはなし